三島について、故郷カナダについて…Jimの目を通して、Jimの言葉で綴っていきます。
今回は、三島市国際交流協会(MIRA)の広報誌「MIRA通信」に連載中のエッセイ「JIMのみしまものがたり」第三回(No.92に掲載)をご紹介します。
春は私にとって特別な季節です。4月には木々に積もった雪が解け、新しい芽を出す草花が春の訪れを知らせてくれる、そんな自然に囲まれたカナダ北東部のニューファンドランド・ラブラドール州で私は育ちました。そして私が雪で覆われたカナダを離れ、初めて日本へやってきたのも1995年の春でした。
ちょうど20年前、初めて三島大社に訪れた時のことは今でも忘れることはありません。足元を静かに舞う桜の花びら、対照的に青々とした芽を出す木々の緑、食欲をそそる出店からのにおい、全てが新鮮で今までには経験したことのないものでした。毎年この時期になると思い出す、そして何年経っても色褪せることはない大切な思い出です。その時に出店で食べ物を買うことすらままならず感じた無力感は、同時に、私の心の中に湧き上がった日本での生活への期待と興奮でもありました。
こうして、後に第二の故郷となる日本での暮らしと、この社会の一員となるための、私の日本語習得への道が始まったのです。その道のりは決して楽なものではないと覚悟していました。しかし実際には、予想していたほど困難なものでもありませんでした。それは日本での生活の早い時期に、コミュニケーションのチャンスは一度きりではないということを学んだからです。言いたいことが伝わらなければ、別の言葉で、トーンを変えて、または別の方法で伝えればいいのだということに気付いたのです。一度で伝わらなかったといって諦めてしまうのではなく、方法を変えて何度でも試して、失敗を重ねることが大切なのです。私の目標は完璧な日本語を話すことではありません。私の話に耳を傾けてもらうことです。幾度とない失敗から学び一つ一つ小さな成功へ繋げていくことで、私は新しい言語を学び、そして日本語の習得によって未来への新たな可能性を見出すことができました。
私が自身の日本での生活を振り返った時にいつも思い出すのが、大志を抱いて1968年に21歳でアメリカへ渡った一人の若者の話です。彼は当時ほとんど英語を話すことができませんでしたが、成功するためには人とのコミュニケーションが非常に重要であることを知っていました。彼の最初の英語教師は、まず彼の強いオーストリア訛りを直すように言いましたが、母国語のアクセントをそう簡単に直すことはできず、しかし彼はそこで諦めることなく賢明な決断をしました。彼は自分のアクセントを障害とすることなく、むしろそれらを自分の個性と強みに変えたのです。彼こそが、今や誰もが知る映画俳優であり、後にカリフォルニア州知事をも務めた「アーノルド・シュワルツェネッガー」です。
一人の英語講師として、また日本を第二の故郷として暮らす一人のカナダ人として、この話は私たちが学び成長していく過程において最も大切なことを常に思い出させてくれます。
何度でも挑戦してください。失敗しても笑って、また挑戦しましょう。そうすれば必ずあなたにも成し遂げられるはずです。
ネルソン・マンデラはこう言っています。
「相手の知っている言語で話せば、それは伝わる。相手の言語で話せば、それは心に響くでしょう。」と。
※ 三島市国際交流協会(MIRA)
MIRA = Mishima International Relations Association。
三島市民と外国の人々との友好親善をテーマに、さまざまな交流を通じ国際化時代にふさわしい三島市のまちづくり人づくりに貢献することを目的に、活動しています。
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